信じていると泣きを見る!世の中にはびこる崇高理論の数々
と思うような崇高理論が世の中にはいくつもあります。
崇高理論というのは、聖人君子のような人間にしかできない考え方のことを指します。
つまり、
と思うような考え方が、崇高理論になるのです。
より良い自分になりたい、人生を上向きにさせたいなど、そう願う人たちの多くが、崇高理論に基づき実践しようと試みています。
しかし、そうしている彼ら彼女らのほとんどが、なんだか生きづらそうで息苦しそうです。
それもそのはず、お釈迦様でも聖人君子でもない僕たちが、いきなり崇高理論を実践しようとしても無理やりになってしまい、しんどくなるのは当たり前なんですよね。
では、どんな崇高理論が世の中にはびこっているのか?
今回は、「信じていると泣きを見る!世の中にはびこる崇高理論の数々」をテーマに徹底解説いたします。
目次
世の中にはびこる崇高理論その1「ドシッと構えていられる女になりましょう」
女性がする恋愛指南でよくあるのが、
というもの。
はっきり言いますが、
そんなこと言われたって無理です。
好きな人に懇意にしている異性の影が見えたら気が気じゃないし、不安や焦りでいっぱいになります。
ドシッと構えていられないのは自己肯定感の低さのせいなんて言う人もいますが、なんでもかんでも自己肯定感のせいにすんなよと思う。
嫌なもんは嫌だし、恋のライバルなんていない方がいいです。
なんて人は、自己顕示欲と支配欲が強くて、意中の存在を手に入れることで存在価値を証明したいだけのエゴイスティックな人間だと僕は思っています。
好きな人に異性の影が見えてもドシッと構えていられる女性は、次の前提のどちらかがないと無理だと思った方がいいでしょう。
-
- そもそもその男性のことをそんなに好きじゃない
-
- その男性に対して絶大な安心感と信頼感がある
つまり、その男性のことを好きであればあるほどドシッと構えてられないし、相手が不誠実な人間だったら、信用なんてできないというわけです。
なので、好きな男性に女性の影が見えたら不安や焦りが出てきて当たり前なんです。
ドシッと構えてられないのは、あなたの自己肯定感の低さのせいではありません。
世の中にはびこる崇高理論その2「好きな人の幸せなら願えるはず」
続いての崇高理論はこちら。
彼のことが本当に好きなら、その人がどんな女性と一緒になっても幸せを願えるはず。
幸せを願えないのは、その人のことを本気で好きじゃないだけ。
この理論もよく目にしますが、いつも「なんでそんなに聖人君子でいることが前提やねん」と思います。
好きな男性が、別の女性とくっつくとか想像でもしたくないし、私のこと選んでよと思うのが標準です。
逆の立場なら僕だってそう思います。
本気で好きだからこそ、誰にも奪われたくないと思って当然なんです。
ただ、その人のことを本当に愛しているなら、ほかの女性と一緒になっても、その男性の幸せを願えるとは思います。
それでも、ちょっとは複雑な気持ちになるのが人間だと思うんですよね。
ちなみに、愛と恋の違いは下記動画で解説しておりますので、ご興味がおありの方はご覧いただけると幸いです。
世の中にはびこる崇高理論その3「すべての物事に感謝しましょう」
SNSを見ていると、
と投稿している人たちがよくいます。
彼ら彼女らには申し訳ないんですが、こういった投稿を目にする度に、「言わされてる感」や「無理やり感」を感じてしまうのは僕だけでしょうか。
そもそもなんですが、すべての物事に感謝するとか絶対無理です。
だって、自分に危害を及ぼしてきたり、あなたを大切に思っている人を傷つけたりする人間に対して感謝できますか?ってことなんですよ。
たとえば、大切に思う我が子が、愉快犯の手にかかりこの世からいなくなってしまった。
すべての物事に感謝するって、こういう出来事に見舞われても感謝しましょうってことなんですよ。
日本海に向けて、ミサイルを飛ばしてくる変な頭のあの人にも感謝しましょうってことです。
そんなの無理じゃないですか。
感謝の念というのは湧き上がってくるものであって、ありがたいと思ってないものにするのは感謝ではありません。
それは、「ただの感謝しているふり」です。
もちろん、いろんなことに感謝できる人間でいるに越したことはないけれど、すべての物事に感謝するのは不可能です。
そして、心からの感謝ができないのは、そうできないだけの理由が必ずあります。
と言う人が分かりやすい例ではないでしょうか。
この台詞が出てくるのは、感謝していることより、それを台無しにされるような行いを相手にされて、不愉快になっているときなんですよね。
つまり、「それさえなければ感謝できる」という状態なんです。
大切なのは、すべての物事に感謝しようとすることではありません。
人の純粋な善意や好意を素直に受け取れる自分になり、当たり前に在るものを当たり前と思わないことが大切なのではないでしょうか。
ちなみに、「感謝できないことが悪いことなのか?」をテーマに、別の角度からお話していますので、下記記事も参考にしていただけると幸いです。
【感謝できないって】感謝とお祝いって強制されてするもんちゃうんやで論【ダメなこと?】
世の中にはびこる崇高理論その4「許せない人を許しましょう」
世の中には、怒りや憎しみは何も生まないと思っている層が一定数存在します。
そういう人たちは声高々にこう言うのです。
いやだから、僕らお釈迦様ちゃうし無理やって。
これは完全に僕の独断と偏見なんですが、この崇高理論を唱えてる人って、今まで人間関係に恵まれてきて、地獄を経験したことがないんだと思っています。
こういう人たちは、憎くてしょうがない人間に遭遇したことがないんだろうし、絶対に許せないと思うような酷い目に遭ったこともない。
そして、実の親がDVやモラハラで、暴力や暴言が当たり前の環境で育ったということもない。
つまり、ぬくぬくと育って生きてきたから、「許せない人を許しましょう」だなんて言えるのです。
生きていくのに絶望するぐらいの酷い裏切りや地獄を経験して乗り越えた人は、許せない気持ちを抱えている人にそんなこと言いません。
自分も同じ気持ちを抱えていたことがあったから、軽々しく許しましょうなんて言わないんですよ。
許せない人を許せないのは、あなたの心が狭いせいではありません。
それだけ酷いことを、許せないと思う相手からされたから、許せないのです。
許せないと感じるのは、それだけ自我がはっきりしていて、自尊心が取り戻っているという証拠です。
ただ、怒りや憎しみに四六時中支配されているのは心身ともに不健全なので、許そうとするのではなく、せめて次の状態に持っていきましょう。
「前より思い出すことは少なくなったけど、思い出したらやっぱり腹が立つ」という状態に。
この状態まで来れば万々歳です。
僕も思い出したらやっぱり腹が立つという人間は何人かいますし、許せない自分は心が狭いだなんて思ったことは一度もありません。
温厚で人のことをあまり嫌いにならない僕を、ここまで怒らせた相手がクソだと思っています。
許せない人のことを無理やり許そうとするからしんどいのです。
許す必要はないので、自分自身のことや生活に集中し、許せない相手の存在を思い出す時間を減らしていきましょう。
世の中にはびこる崇高理論その5「人を見下してはいけません」
最後の崇高理論は、「人のことを見下してはいけない」というもの。
もちろん、そうしないに越したことはないです。
ただ、人を見下すことでしか自分の心を守れない場面ってあるんですよ。
たとえば大嫌いな上司がいたとして、人を見下してはいけないと信じている人間は、次のように考えます。
と。
そして、パワハラを受けたり理不尽な要求をされたりしても、見下すことなく、自分の心を殺して相手に迎合しようとするのです。
しかし、自分の心を守るために人を見下せる人間は、嫌いな相手から腹が立つことを言われたとき、次のように考えます。
コイツ、マジで終わってんな。
ゴミがなんか言ってるわ。
要するに、嫌いな人間のことを自分と同じ人間だとは考えないのです。
嫌いな相手を自分と同じ人間と考えてしまうから、しんどさがさらに加わってしまうんですね。
とはいえ、たとえ嫌いな相手でも見下さないという人は、すごく心がキレイで優しいのだと思います。
でも、次にお話することはどうか忘れないでください。
世の中には、同じ人間でありながら救いようのないヤツらがいるということを。
しかも、その相手はこちらのことを同じ人間だとは思ってないということを。
だから平気で、嫌なことを言ったりしたりできるんですよ。
厳しいようだけど、そんな相手に対して慈悲をかけたままでいるから、舐められるんですよということです。
ほかにも、生きていくのがつらくなったとき、自分を立て直すために下を見るという方法があります。
つまり、今の自分より悲惨な人を見て、自分はまだ恵まれている方だと思い直すという方法なんです。
この部分だけを見るとものすごく性格が悪いことを言ってますが、人生がどん底のときに上なんて見れないじゃないですか。
上を見たら、羨ましさと嫉妬で自分がみじめになるだけだし、上を見て自分を奮い立たせられるような人は、まだどん底にはいないんだと思います。
ドラマ「全裸監督」のモデルになった村西とおるさんは、次のように言っています。
彼は、天国も経験しているけど、地獄も経験している人間の1人です。
それは、アニメ版と映画版のジャイアンの違い以上の振れ幅なんですが、ドラマで見た情報だけでも、ここまでの天地の差を経験している人間ってほとんどいないんじゃないかなと思います。
どん底状態に陥ったとき、自分より悲惨な人を見て自身を奮い立たせるのは、人を見下しているとみなされてもしょうがありません。
しかし、本当は人を見下さない方がいいんだろうけれど、そうしないと自分の心を守れなかったり、立て直せなかったりするときだってあるのです。
そんなとき、崇高理論にとらわれて聖人君子な考え方をしていても、自分の首が絞まるばかりなんです。
とはいえ、いつも人を見下して自分はまだましだと思っているような人は、ただの成長しない人なので、そうならないように注意してください。
以上になりますが、巷にあふれている崇高理論の数々は、実践しようとすればするほど自分がしんどくなることの方が多いです。
それに、そういった理論を発信している人自身、できてないと僕は思っています。
崇高理論を発信ている人間が、どんなに偉くても、有名でも、関係がありません。
本当はそうできた方がいいんだろうけど、実際はムズいよね。
それこそお釈迦様とかのレベルにならないと無理じゃない?
というのが崇高理論なんです。
好きな人に異性の影が見えたら嫌だし、ほかの人じゃなく自分を選んでもらいたい。
自然と感謝の念が沸き起こるものに対し、ありがたいと思う。
許せない人を無理に許さなくていい。
こっちを見下してきて、嫌なことを言ったりしたりしてくる相手に慈悲をかける必要はないし、つらくて苦しいときに上なんて見てられない。
それが、僕たち生きている人間の当たり前ではないでしょうか。
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